三月三十一日
こんな小さな干潟に
流れのぶつかる場所がある
そこで
静かな供儀の最中だったが
わたしは白いパスポートをかざした
合鴨の通行許可を得
そして護岸でビート板を捨てた
葦畑を通り過ぎ、家につく
もう部屋は暑い
月の重さに引かれて
角閃石は震えだし
先頃すれ違ったあの人も
黄泉のうたかたを舐めている
春
衝突したてのオレンジが
樋のむこうに生えそろう
湧かしたミルクを飲むと、舌がざらつくから
おかしいなと思って鞄を開けたら
毛羽立った羊虫が合成皮革を噛み殺し
紙類はぜんぶ粉々
シボレーに乗った叔父さんの靴下が
執拗な感じで
内ポケットにびっしり張り付いている
「かばんごと捨てるしかないよなあ」と君が言う
「やましいことなんか何もしてないのに
すごく臭いわ
お気に入りのバッグだったの」
蚕豆をついばむ手つきが
クロード・ドビュッシーの音楽に混ざり合い
格子窓のむこうでポプラが腫れ上がる
——この男がやったんだ、とわたしは気づく
僕の手紙も食われちゃった?
またさ、同じ手紙書く、よ
煮崩れたクラクションが鳴り響いた
葉桜は押し黙ってそれを見守るだろう
テーブルの下
彼のこむら返りが止まらなくなる
意味もなくわたしは帽子を裏返す
明日は鯰を食べよう、とふたりは思う
巡礼
deliver
語源を辿ってゆくその水脈はいつも、人々の生が積もらせ、踏み固めてきた地層の下底を流れているものだから、その流れに触れるという行為は、残照のような人知のきらめきに私たちの生を透かすよろこびをつねに伴う。
冬にある英語の講義を受けた。それは大学受験用の特別講座だったが、ひときわ耳に残ったのは、講師が説明した deliver という語についての興味深い挿話だった。
deliver は liberty の派生語だからね、ほら、荷物が送り主のもとに届けられるとぴゃーっと解放されるんだよ、それまで窮屈におしこめられてたものが、そこで自由になるわけ。だから運ぶ(deliver)ってことは自由(liberty)になることなんだよ…。たしか、そんなふうな説明だったと思う。
これは、僕にとってはある種の意外な事実を示していた。すなわち、「運んでいる」という動作それ自体は解放ではない、という裏返しの事実にたいして僕は若干の違和感を覚えたのだ。僕にとってはつねに、運ぶという行為のあらゆる微分は解放のよろこびを内に孕んでいたし、むしろそれこそが僕をして日々を充ちたりて生きることを可能にする重要なファクターのひとつとなっていることは、実際ほとんど疑いようもなかった。未来のために現在を犠牲にするような生き方は息苦しいと感じていたし、言い換えれば、現在しかない、という場所に自分をいつも置いておくということは、自分の生をくっきりと認識するうえで僕が最も大切だと思う方法のひとつだったから。
それに、ゆるやかになにかを運ぶことは、ただそれだけで気持ちがよかった。変わらないものをたずさえて、変わりゆく世界を行きずる。そこで生じる摩擦を、僕はひきのばして丁寧に丁寧に感じ取りたかった。なぜなら、それこそが現在を充実させるから。現在の充実をあせらずに受身でひきうけるには、変わらないものを動かすことが必要だ。散歩をするのが気持ちよいのは、時間を通底する皮膚感覚をもった、「身体」という装置をゆっくりと動かすことで、世界の微小なゆらぎに、あらゆるものに蠢く「生」のざわめきを私たちが聞き取るからである。たしかめながら動かすこと、たしかめながら流すことがあらゆる生をまぶしく感じさせる。そういう「長い一瞬」のとりとめもない美しさを、僕は心から愛していた。
けれど、とにもかくにも、この疑問はだいじに保存しておくべきだという感触があったので、それからも折に触れてこの「deliverの問題」は僕の頭から繰り返しひっぱりだされ、あれこれむやみにいじくりまわされていたのだ。
知識や問いというかぼそい糸は、思いもよらない糸と織られることで新しいしなやかさを獲得するということがままあるが、この「deliverの問題」も中原中也という詩人のことばと邂逅することによってにおいやかな織物に裁縫された。それは小池昌代という詩人の書いた、タブッキという作家についてのエッセイの中で引用されていたもので、それだけでもこの、人を連ねる「運び」の感覚に思わず背筋がぞくりとしたが、中也のことば自体もまた、「運び」に寄せた、鋭いうたの響きをもつ連なりだった。「子守唄よ」という詩である。
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
然しその聲は、どうなるのだらう?
小池昌代は引用につづけて、「このように始まる詩ですが、母親の歌う子守唄が暗い海を超えていくだろう? だけどそれを聞き届けるのは誰だろう? それに、あの声は途中で、消えはしないだろうかと、自分にともなく、誰にともなく、繰り返し、繰り返し、問いかけている…略…ここにある声は単独なのです。受け止めるものがいないときの声ほど、さびしいものはありません」と綴っている。
僕は、ああそうか、deliver とはそういうことだったのかと、この一連のことばを授かることで妙に納得できた気がした。古来ヨーロッパの人々が感じていた、ある意味では特別ともいえる種類のよろこびを、水脈を通じて胸に聞くことができた気がしたのだ。つまり、deliver とはおそらく、なにかが「届く」ということにかんして、おそらく世界ぜんたいに送られるつよい賛美の響きそのものなのだろうということだ。
現代に生きる私たちはつい、「届かないかもしれない」という重要な真実を見失ってしまうことがある。インターネットはもはや、飛行機や電車もなかった古代の人々にとって、「届く」ということはそれ自体奇跡とも思える道筋のすべてを包含した言葉だったのだろう。そして、届けられた贈り物自身にとっても……。だから、包みをほどかれる贈り物の解放感は、きっとその「運び」を成立させたこの世界すべてにたいして、美しく香りを放ちながら発散させられた。世界の奇跡は、「運び」の旅路に迷わず集約し、迷わずその道から開け放たれ世界にたいする感謝の表れとして空気を満たしていたはずだ。deliver ということばは、「運ぶ」過程のすべてを積分した形で祝福する。かならずしも運ぶことの微分が幸福でないということを意味するわけではなく、おそらくその微分がつねに孕んでいたであろう不安さえもまたねぎらうものであったに違いない。
母の子守唄の声は、発散する。だれがそれを聞くかは、わからない。だれにも聞かれないかもしれない、けれど、それを聞くだれかはもしかしたらほんとうに「だれであってもおかしくはない」…、だからこそそれが海を運ばれ、「ほかならぬだれか」に届くとしたらそれはまさに、奇跡だ。
じつは、だれでもよかったのにあの人だった、あるいは自分だったということに奇跡を感じる向きは、現代においては驚くほどに少ない。多くが、「だれでもよかったんだね」ということばでその偶然に落胆し、自分のかわりがこの世に存在しているということに避けがたい絶望を感じてしまう。きっとそれは、自我の苦しみだろう。でも、たぶんそんな現実とはちがった現実が、たしかにdeliver ということばを通じて(もちろん、その他のあらゆる存在を通じても)今私たちが生きる世界にちゃんと息づいているのだと思う。楽観的で一面的な見方かもしれないが、中也のこの詩がたたえる巨大な不安は、そういった別種の現実のよろこびを回復するうえで、逆説的に機能する。
同じように、たとえば「空気人形」という映画では、心をもってしまった人形の女が、愛する男にむかしの女のかわりのようにあつかわれ、一度は落胆する。けれど彼女はしだいに、みながからっぽで、自分のかわりはいくらでもいるはずなのに、だれしもがだれかにとってのかけがえのない人となる時がこの世には存在する、という奇跡に救いを見出す。そして、自分の存在の意味ははっきりとつかめないままで、しかし、周囲のひとびとや生き物たちを明らかに救いながら死んでゆく。それどころか、彼女は死んでからもその存在の残滓で、ある人を救いだし、そこで物語は終わる。この映画を観て僕は、存在とは、宛先のない手紙なのだと、思った。
私たちの存在は、実のところだれに見つけられているのか判然としていない。それは、奥深い風の作用でふいに晩ご飯の匂いがどこからか訪れる帰り道のように、だれも知ることのできない「運び」の道筋を通って、人から人へ、いや、存在から存在へと届けられていく、まことに不思議なものである。ある人は切実に運び、ある人は無為に運び、ある人は時にその動きを止めて(何かを止めることが、何かを運んだりもする…)。そんなふうに、私たちはただ存在しているだけで、自分でもよくわからない何かを請け負い、投げ捨て、また拾うということを繰り返しながら、同時に請け負われ、投げ捨てられ、拾われて、「だれかにとってのほかでもないあなた」として時にはるかな存在へと届けられる。deliver のよろこびが長い水脈を伝って遠い僕へと伝わったように。存在が音楽に仮託され、いつまでも詠み人知らずのままで長く歌い継がれてゆくように。「運び」の流れのなかで、存在は否応なく手紙として綴られる。たどり着くまで宛先を知らないその手紙の不安は、どれほどのものだろうか…? そして、たどり着いた時のよろこびは…? ただ、そのことを想う。
だれしもこのよくわからない「運び」の作用のなかにいるから、たしかめられるものだけを動かすことは到底できない。むしろ僕がそういったものを動かそうとするのは、世界がたしかめられぬものに満ち溢れているからなのだろう。そんな、不明すぎる世界で何かを運んだり、流したりすることに、やはり不安がつきまとわないはずがないのだ。僕は、充実ということばにすがって、たしかめられぬ世界をそのまま引き受ける、風通しのよい「存在そのもの」であることをつい、忘れてしまっていたのかもしれない。
私たちは、アイデンティティという言葉で差異を求められて困惑したり、あるいは代用品として認識されている自分自身にたいして虚しさを感じたりすることがある。おそらくそれは、どちらの場合においても「存在そのもの」とは過不足のある自己像をなかば強制的にイメージさせられてしまうからだろう。差異化した自我、というのはすでに肥大化した自我であると僕は思う。まず、アイデンティティは本来、差異化した自我ではなく、存在することそのものに持たれるべきだ。まあそういった語義的な相違は置いておくにしても、そこに含まれたメッセージ、つまり、「差異としてのわたし」の要請は、意識的にしろ無意識的にしろかならず、「差異のまえに存在するわたし」でありたいという叫びを私たちに呼び起こす。また逆に、代用品として私たちが認識されるとき、私たちは自身をいくつかの機能の総体としてとらえられているということに傷つき、「機能に還元される以前の存在」でありたいともまた感じるはずだ。そう、それらは存在を希求するという点でまったく同種の心のはたらきなのである。
であるならば、「存在そのもの」であるために、私たちはいったい何をすればよいのだろうか? 何をすれば、過不足のある自己を要請する社会の法則に縛られず、日々を生きてゆくことができるのだろうか?
おそらくそのヒントは、時に私たちがやむを得ず陥る、忘我と自我のはざまに隠されている。
細野晴臣という音楽家が、表現にかんして興味深いことを語っていた。
「今はね、そんなに自己表現をしたいっていう欲求はなくて、むしろミディアム、つまり媒介だっていう意識の方が強い。もちろん、昔は違ってたよ。「自分はスゴイ」「いや最低だ」って、いつも大揺れに揺れていた。でも思い知らされたんだね。過去の音楽を知れば知るほど。圧倒されちゃって。もはや謙虚にならざるを得ない。あらゆることに必ず誰かの印が先についてるから。自分にできることは、そこにちょっと自分の印をつけ加えるくらいのことだ。」
これは、まさに存在そのものとしての自己の認識であると思う。彼は自我に固執しながらも、自我を変革する過程で外部からの刺激、時には圧倒されるほどの刺激を受け止める弾力性を保ち続けていたのであろう。そのためには、ひとつひとつの物事を理解し結びつけてゆく知性と、その連なりに歴史の風や水脈を感じる鋭敏な皮膚感覚の両方が必要であったはずだ。彼は、古来から吹きつづける「運び」の風をおそらく形而上でも形而下でも認識できる存在となることで、すくなくとも創作をするあいだは忘我と自我のはざまに自らを位置させる術を身につけた。自我に固執しながらも世界にたいして新鮮にひらいた部分を残しておく、そういったバランス感覚とある種のつよさによって、ミディアムへと自己の位相を変化させることができたのである。
芸術家ほど差異としての自己を求められる存在は、ほかにそう多くはない。だからこそ、この細野晴臣のことばは、縛りから解放されて「存在そのもの」となる道筋を具体的に、また実践的に示したひとつの重要な例であるように思える。
おそらく、私たちの自我への固執は一生なくならないだろう。というのは、なにかを認識すれば、認識そのものや、その認識をもたらした区別、さらには区別をもたらした人間自身や自分自身の知というものにたいして、たとえどんなに微弱であろうとかならず固執は生じてしまうだろうから。裏を返せば、固執という問題を取りあつかう時、認識じたいのすげ替えを行うということがとても重要な手段のひとつになりうる。肥大化する自我を捨て去るよう古来より数おおくの宗教や神話が語ってきた、その内実は、世界や他者と対置され、それらとの区別の認識のもとに成り立つ、意味内容的には矮小な自我の回避に捧げられていたのではないだろうか? そう、その最も重要な一点、すなわち「世界や他者と対置され、区別されることのないわれわれの生」という認識を獲得するまでの道のりこそが、修行や巡礼、瞑想といった手段に具体化されていたのだと、僕は考える。この過程をとおして、私たちの自我への固執は、適切な認識のもと、肥大化せず取りあつかわれることが可能になっていたのだろうと。
ここで僕がつよく述べておきたいのは、細野にもたらされた変革と、たとえば瞑想のような、はっきりと宗教的な道すじを辿ってもたらされた変革に、なんら本質的な違いはないということだ。それらはどちらも、自我への認識を体感と知性によってすげ替えたことによる、新しい位相での自我の獲得であるという点に変わりはない。つまり、私たちはあからさまに宗教的とされる行為を伴わずとも、「存在そのもの」である自我を回復することが可能なのだ。そして、この文章のテーマである「運び」が重要となるゆえんも、そこにある。
「運び」の流れには、共時的なものと通時的なものがある。空間的な流れと時間的な流れの双方が機能している、と言い換えられる。この文章においては、前者の認識の一例として、古来ヨーロッパにおいてdeliver という言葉に集約されていたと思われる、届くことにたいするよろこび、後者の認識の一例として、deliver という言葉が長い時間を通して現在の僕に届くということにたいするよろこびを挙げた。また大まかに言えば、中也の詩の子守唄や「空気人形」の経験は前者、細野の経験は後者にあてはめることができるだろう。それらはどちらの形であっても、自我の肥大による苦しみや世界と対置される小さな自己の不安を原初的にひきうけつつ、どこかでこの世界の「運び」の道筋を感知する弾力をたもって生きてゆく、そういった生の中で獲得されたものだ。言い換えれば、彼らはみなどこかで「運び」という世界の奇跡の感得を待ち続けるだけの力を有していた(たとえ当人が自己の行為について無意識であったとしても)。いや、もちろん、生きている以上私たちにはそれを「待ち続けることしかできない」わけだが、その苦しい生においてなにかをダイレクトに感じることのできる、弾力性の内臓と皮膚を、自我の皮膜におおい隠してはならないのだと思う。世界や他者と切断された自我はかならず弱く、それをまもるための鎧さえまた自我をほどいたかぼそい糸で作り上げるしかないのだ。自我で自我をまもる、その連鎖が円滑に機能してしまえば、世界との通路は絶たれてしまう。「運び」の奇跡が感得されることはもう、望めなくなってしまう。
歴史を学ぶ、生命を学ぶ、あらゆる学びはきっと、「運び」の時間的、空間的な流れを知性によって認識する日のために、そしてその日まで認識を可能にする弾力を維持することに奉仕されるものであるはずだ。人とかかわる、風を聞く、愛をうたうことが、いまこの世界の空間的な「運び」のそれにきっと捧げられているのと、まったく同じように。
そして、それら二者の流れは、けっしてたがいに独立したものではない。いつの日も変わらぬ人間の瞬間のいとなみが、ときに長い水脈を通じて今の私たちのいとなみに重なったりする。長い歴史の地層が、今の私たちのいとなみに疑問符を投げかけたり、あるいは力を与えたりすることもある。そう、「運び」の流れは、ただ流れとしてのみ存在して、そこには時間も空間もほんとうはない。きっと、たどり着いてしまえば、よくわからないけれどそれでいいと思える世界がそこには広がって、流れているはずなのだ。それだけなのだ。Deliver という語がただ、よろこびという時間も空間もない想いをかかえてこの空を、草木を、人の中を、見えない「運び」の幾筋という旅路にかよいあう、そのように。
私たちはきっとその流れを、いつかの瞬間に目にする。そのとき、私たちの自我は世界や他者との垣根をとりはらわれ、ただ存在そのものとして軽やかに奇跡のはかりしれなさを感得するだろう。その重さこそが、私たちをもっとも自由にする「運び」の不安そのものであると深く、知りながら。
船出に捧ぐ詩
さぎりに浮かぶ あの船は
わたしを語ってくれますか
みどり児撫ぜる 春かぜに
あなたをよそえられたなら
この胸に生けた 藤色のブローチを
あたたかな羽に変える
遠いまばたきを繰り返していたい
岬にうずもれるその産毛に
わたしも いつまでも朽ちていきたいから
うみべの夢は 貨物にのって運ばれてゆきます
散歩
100パーセントの散歩をしたのはいつぶりだろう。もしかしたら、物心ついてからはしたことがなかったかもしれない。
目的もなしに、音楽も聴かず、ただ知らない道を歩くこと。小学生の時でさえ、夢中で歩く先は公園だったり、誰かの家だったりしたような気がする。
僕は今年から予備校に通っているのだが、火曜と木曜には昼どきに三時間ほど授業のない時間があるので、勉強に疲れたときにあたりを散歩するようになった。
予備校は僕の家からほど近く、自転車で十分もかからない。いわば自分の町を散歩しているようなものなのだが、全くそんな感じがしない。というのも、僕は中学から地元を離れてしまったので、よく使う道以外のことはほとんど何も知らないのである。
散歩をする前は、自分がどれだけこの町の道を知らないのかすらわからなかった。
決まった道から見えるのは決まった景色で、日常においては目に映るものが世界に等しいように思える。だから、よく知っている道を歩くとき、僕たちは無意識に、世界のすべてを知っていると思って安心している。もちろん、歩きながら宇宙の神秘について考えたり、気になる人のことについて考えたりすることもある。けれど、そんなときの僕たちの心は、なにかきっかけがなければ町に対して開かれた状態にはならない。僕らは、あるきっかけ(段差につまづいたり、自転車のブレーキの音に注意をひかれたりすること)のあとの数秒間は、考え事をやめて周囲の世界に心を開き、そののちまた考え事をはじめる。僕たちは、実はなにも考えていないときしか、あまねく世界に目を向けることはできない。つまり、周囲に心を開いているときには、疑問や不安はない。世界のすべてを知っているとはそういうことだ。そして、この安心は錯覚にすぎない。
言うならば、それが錯覚と気づかせてくれるものこそが散歩であり、散歩によって僕たちはその錯覚がいかに大切なものかもまた知ることができる。
都市における道というのは不思議なもので、建物に隠されたひとつむこうの通りで何が起こっているかを知ることはできない。そういった意味では、いま自分のいる、自分の見ている通りのみが既知で、世界のほかのすべての通りは未知である。けれど、その未知と既知にも、頭の中で地図が想像できるか、以前通ったことがある道が近くにあるか、といったいくつかの段階がある。錯覚が僕たちの無意識にどれくらい入り込んでいるのかも、同じように段階的で、濃淡がある。散歩というのは、そのように安心と不安、現実と想像のさまざまな濃淡を絵のように眺める中で、世界の本質に迫っていく行為なのだと思う。
そんな中で、自分の町というのは既知と未知との境目がわりあいはっきりしているから、ひとつの道が、まるで三途の川にかけられた橋のように稀有で重要なものに思われることがある。予備校は大きな通りに面しているのだが、またその通りにつながる小道にも接していて、僕は恥ずかしながら散歩をするまでその小道には気づかなかった。まさにこの小道が、僕の場合には既知と未知とをつなぐ橋だったのだ。ひとつの道が、未知につながり、その道が既知となれば、また別のあらたな道が未知へとつながっていく。このように、未知と道とが連環しあう関係にあるということが、音声の上でも散歩というもののもつ無限を言い表しているようである。
未知はだれしも不安である。地図アプリを使わずにひとりで歩いていくと、不安が僕にあるひとつの感覚を呼びおこす。
「今、自分は社会から抜け出して世界に触れている。」
もし今からスマートフォンを川に投げ捨てて、これからはひたすら知らない道を歩き続けるとしたら。そう思うことは、自分が社会から放たれたという無重力と、無重力のもたらす、歯が震えるような不安を僕に与える。社会への接続という問題は、ひどく重要であるはずなのに、その問題が身に迫った時の僕らは月の上でステップを踏むように妙に軽やかなのである。いや、実際にはジェットコースターに乗った時のように、軽さと重さは不規則にやってくるのかもしれない。軽さは内臓の中までにも及んで、酔いと吐き気をもたらす。場合によっては吐いてしまうこともあるのかもしれない。吐くというのはつまり、問題すらも川に捨ててしまうということだ。
けれど人間の脳は、記憶を思い通りに消すことができない。問題がわからないのに記憶だけが脅迫的に社会を思い出させるということがあったら、それは地獄であるように思う。というのは、僕も散歩をしている際に、苦痛を覚えたのだ。
散歩というものは、本来的に未知を知るという楽しさに満ちているから、そのおかげで楽しすぎると社会との接続という問題が、ふと頭から消えてしまうことがある。すると、実は散歩の楽しさというものは社会との接続が薄れていくという楽しみでもあるので、問題が消滅することで楽しさに欠陥が生まれるという逆説が生じるのだ。しかも、既知と未知との距離をはかるものさしと、社会との接続の強弱をはかるそれとは関連しあっているから、ひとつのものさしが問題の消滅によって機能しなくなると、もういっぽうのものさしも機能不全に陥る。このようにして、未知を知るという喜びさえも基準を失って消え去ってしまうのだ。ここにおいて一挙に、社会と接続していたときの記憶が、喜びの欠如によって空白となった脳の一部にどっと押し寄せる。社会と接続しきっていない人間が、接続しているときの記憶のみで満たされることが、苦痛でないわけがない。僕が散歩の途中で不意に覚えた苦痛というのも、かけがえのない関係性があった人との記憶によるものだった。
なぜこれを孤独ではなく苦痛と言わざるをえないのか。
孤独とは社会の中において感じるものだからだ。精神的にひとりであり、ひとりで完結している場合に人は孤独を感じない。精神的には複数人でいるはずなのに、ひとりでいること、その欠如の感覚こそが孤独なのだ。
ひとりで散歩をするとき、社会から離れかけているときのこの苦痛が、孤独よりもつらいのかどうかは、僕にもわからない。ただ、それは孤独とは別物で、個人的には苦しさと痛みを伴うものだった。
苦痛を感じたのちすこし時間がたつと、また散歩の楽しさは育っていく。そしてその喜びが大輪の花を咲かせると、また苦痛を感じる。
僕はこのようなサイクルを、いやなものだとは思わない。それは、僕にとって筋肉が多少の酷使をしたのちにより回復する過程に似て、とてもストイックで健康的なものだ。
予備校から十五分ほど歩くと、とてものどかな畑が広がっているのだが、そんな静かな道を、愛すべき町を、ゆっくり歩けるのはもしかしたらこの一年を除いて一生ないかもしれないと思ったりする。朗らかに心の筋肉を伸ばしながらこの町と育っていけたらとても気持ちがいいだろうなと考えていると、しだいに心が町へと、世界へと広がっていく。
ひとすじの飛行機雲が町をつつむ青空に鮮やかな切れ込みを入れていた。